第19回

ペットと家族になるということ

2015年7月28日

今回は、女性獣医師の第一人者である柴内裕子先生にお越しいただき、長年動物医療に携われた中でのご体験や、女性の社会進出について、そしてペットを家族として迎え入れることについてなど、様々なお話を伺いました。

対談者プロフィール

有馬もと
柴内裕子(しばない・ひろこ)
赤坂動物病院 総院長
1959年 日本大学獣医学部を卒業後、1963年に赤坂動物病院を開設。
1987年より、日本動物病院協会(現(公益社団法人 日本動物病院福祉協会)第4代会長として、人と動物とのふれあい活動(コンパニオンアニマルパートナーシッププログラム=CAPP)をスタートさせ、現在も動物たちとともに小児病棟、小学校、高齢者施設などへのボランティア活動を牽引。

「日本最古の女性獣医師」誕生秘話

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下薗:女性獣医師の第一人者である柴内先生、長いご経験の中で獣医師として、また動物病院の院長先生としての想いをお伺いさせてください。獣医師になられたきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

柴内:はい。私は自己紹介のときに「日本最古の女性獣医師」と申し上げております。生まれてから今まで、複数の動物たちと、ずっと一緒に生活してきましたので、身近に動物がいなかったことがありません。
獣医師という職業を選んだきっかけは、私の戦争体験からです。第二次世界大戦が1945年に終戦を迎えたとき、私は10歳でした。小学校2年生で集団疎開、その後、家族疎開も経験しましたが、我が家は東京の代々木にあり、空襲で焼けてしまいました。そのときの光景が今でも忘れられません。

下薗:どのような光景だったのでしょうか。

柴内:自宅で飼育していたチャボが、ヒナを抱えたまま焼け死んだのです。鳥小屋の中で逃げることもできず、小さな体の親チャボが、大きめの3羽のヒナを抱いて焼け死んでいたのです。親鳥もヒナも死んでしまう、とても無残な姿を見ました。

下薗:とても悲惨な光景ですね…。

柴内:また、当時の東京は馬が荷車を引く時代でもあり、あるとき大きな荷物を馬が引っ張って長い坂を登っていくところに出合いました。ところが、荷物が重すぎて、荷車が前に進まない。それでも馬ていさんが大きな大きな鎖で馬を叩いて進ませようとしていたのです。馬の大きな目から涙がにじんで見え、それは悲しい光景でした。

下薗:聞いているだけで胸が締めつけられるようです…。

柴内:ほかにも、祖母が大切にしていた犬の喉に腫瘍ができ、東京中の獣医さんを探したのですが、獣医師は戦争に行ってしまっているので、診てくれる獣医師がいなかったのです。誰もいませんでした。今考えるとリンパ腫かと思うのですが、診療も治療も受けられないまま、犬を見殺しにしてしまいました。

下薗:本当に悔しかったかと思います。

柴内:最近、テレビドラマでもありましたが、大型犬はみな戦争に徴用されていきました。私の父はシェパードやポインターを飼育していましたが、ある日突然、トラックが家にやってきて、父の犬を檻に押し込んで連れて行ってしまったんです。別の時、シェパードの尾が檻の隙間から出て…子ども心に、「兵隊さんのお役にたつために戦地へ行くんだ」と考えていました。今考えると、普通の家庭にいた犬が、戦地で戦えるはずがありません。大型犬を選んだ理由は、皮にするため、肉にするため、これだけです。そんな様子を目の当たりにしながら終戦を迎えました。 このような戦争体験があり、「絶対に戦争に行かない獣医さんになろう」と心に決めたのです。そのために動物のことを診れる女性獣医師になろうと。当時はまだ、女性の方はだれも獣医科大学には行っていませんでした。男女共学にはなっていた日本大学に、最初の女性獣医学生として入学しました。このような流れで、その後は比較的順調に進み、今に至っています。

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下薗:戦後70年の現在では想像ができないような壮絶なご経験をされて、今に至るんですね。
柴内先生が院長を務められる赤坂動物病院さんですが、初めから赤坂に開業されようとして、スタートされたのですか?

柴内:努力の何倍も、幸せな恩恵にあずかっています。大学に残っていたときも、助手のときも、相変わらず臨床を目指していましたが、どこで開業するという予定はありませんでした。偶然、赤坂で動物病院を開いていた獣医師さんのお知り合いと私の父が友人で、動物病院の跡取りをさがしていたそうです。ありがたいお話と思っていましたら、ある日突然「至急来てください」と呼ばれたのです。当時の私は、赤坂には芸者さんばかりがいるのだと思っておりました。

下薗:たしかに、赤坂というとそんなイメージもありましたね。

柴内:そうなんです。そんな中で地下鉄を降りると、普通の街ですし、車のショールームもあり、イメージとちがいました。確かに、まだ黒板塀もあって町の風情は赤坂でしたが。その一角に小さな病院があり、ひとりの獣医師さんが迎えてくれましたが、初めてお会いして一目見たときに、黄疸があることに気づきました。のちの私の夫となる男性なのですが、肝臓を悪くして、今から入院だから、あとのことは任せたと言われたのです。

下薗:え!ご主人さまとの出会いがこの動物病院だったんですか!

柴内:はい。ただ当時の私はまだ大学の助手でしたので、暇を見つけてお手伝いをするということで、大学が終わってからお手伝いをすることになり、そしてしばらくしてこの病院を継いでほしいと言われ、願ってもないことだということで、そのまま赤坂の病院を継いだのです。今思うと、どこで病院を開くよりも、この赤坂でよかったと思っております。

下薗:やはり、土地が育ててくれるというのはありますよね。シモゾノ学園の前身である青山ケンネルも青山で開業したことによって、勉強させてもらったり、育ててもらったという感覚が強いですね。

柴内:当時から青山ケンネルさんはモダンで憧れのペットショップさんでしたよ。

下薗:そうなんですか!ありがとうございます。
当時はまだ、子犬の健康管理も今ほどしっかりとできていない時代だったはずです。私どものお客さまの中にも、柴内先生の動物病院にお世話になるお客さまも多くいたのではないかと思います。

柴内:いらっしゃいました。また青山ケンネルさんのスタッフの方で、ご説明するととても熱心に聞いてくださる男性のこともよく覚えております。

下薗:吉澤という私の兄ではないでしょうか。

柴内:あぁ、そうかもしれません。とても良いかたでしたよ。

下薗:ありがとうございます。 ただ当時はブリーディングをする方と獣医師の先生は、なかなか相容れるところがなかったように思うんですね。

柴内:今でもそうです。一番の課題は、獣医学であるブリーディングに獣医師が関わってこなかったことです。獣医学でありながら、獣医師がなんのかかわりもしていません。今でも隔絶しています。健康な仔犬を産ませるための連携ができていません。

下薗:お客さまのことを思えば、チームワークよくブリーディングから始まって、お客さまにお渡ししてからの保障ができるといいですね。

IAC